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【国際】ベトナム、WTO加盟交渉の舞台裏

シンガポールとの外交関係正常化に向けた交渉団
(C)TUOI TRE

「協力しつつも闘う」という原則のもと進められたWTO加盟交渉、そしてその後の自由貿易協定(FTA)締結は、ベトナムを国際経済に深く結びつけ、いまや世界20位の貿易国に押し上げた。その舞台裏には、知られざる数々の苦労と駆け引きがあった。

開国の必然性

1987年11月、当時商業副大臣だったルーン・バン・トゥ氏は、運命的にボー・バン・キエット第一副首相と出会う。キエット氏は彼に特別な使命を託した。「いかなる方法を使ってでも、シンガポールとの関係を正常化し、ASEANに加盟せよ」。

「当時の状況が私たちを開国へと駆り立てたのです」とトゥ氏は振り返る。1975年の南北統一後、ベトナムは国際的に孤立し、米国の禁輸措置を受けていた。戦後の復興もままならない中で北方・南西の国境戦争を経験し、経済は崩壊、インフレ率は一時700%を超えた。「想像を絶する状況でした」とトゥ氏は語る。

その打開策として1987年には外国投資法が制定され、「ベトナムは世界中の国々と友好関係を築く用意がある」とのメッセージが発せられた。シンガポールとの関係正常化は、地域のバランスを整えるための第一歩だった。

駐シンガポール大使として赴任したトゥ氏は、外交ルートを駆使し、政府高官の訪問を次々に実現させた。1991年のキエット氏訪問は両国関係正常化を決定づけ、ベトナムは1995年にASEAN正式加盟を果たす。これは米国との関係正常化への布石でもあった。

WTO加盟交渉――三代政権をまたぐ長丁場

ASEAN加盟と米国との国交正常化を経て、ベトナムはWTO加盟というさらに大きな挑戦に踏み出す。トゥ氏は交渉団の団長として、その最前線に立った。

この交渉は、三人の首相と三人の商工大臣にまたがり、149の国・地域と200回以上の会合を重ねるという長期戦だった。ベトナムは3,316もの質問に答え、国内法制を国際基準に合わせて修正するという難題に直面した。

当初は29本の法律改正を約束したが、実際には110本以上の法律・法令を手直しせざるを得なかった。外国の専門家からは「20年かからないと制度は整わない」と揶揄され、報道も圧力を強めた。

2004年、米国は「マスター・ロー(他の法律を包括的に調整する基本法)」の策定を提案した。完成に2年かかるとされたが、トゥ氏は「実際には4年かかる」と判断。それでは交渉の機を逃すと考え、彼は逆転の一手を打つ。国際条約の規定を国内法より優先できるよう、国際条約法第8条の改正を提案したのだ。米国もこれを了承し、ベトナムは「交渉を進めつつ法改正を段階的に進める」という道を切り開いた。

2006年5月31日、ホーチミン市で米国との交渉が最終合意に達し、米国は長年の対ベトナム経済封鎖法を撤廃。永久的な正常貿易関係を認めた。

国内での「もう一つの交渉」

しかし難題は国外だけではなかった。国内でも「なぜ急いで市場を開放するのか」という反発は強かった。各省庁や地方、業界団体、企業からは厳しい質問が相次ぎ、説得と説明が不可欠だった。

トゥ氏は各部門の次官級会合に参加し、何をどこまで開放するかを調整した。また毎月の中央宣伝部の会合では、主要メディアの編集長に直接交渉経過を説明した。国会や党中央委員会に対しても、法改正の必要性を繰り返し訴えた。

さらに、ベテラン革命家の団体――退役軍人会や歴史あるクラブにも足を運び、国の進路を心配する人々を粘り強く説得した。「WTO加盟は単なる市場開放ではなく、内部改革そのものなのだ」と。

国際的な懐疑と巧みな切り返し

国外の視線も厳しかった。多くの国はベトナムを「計画経済で市場原理に馴染まない」と見なし、ある記者からは「社会主義と市場経済は水と油だ。混ぜ合わせることはできないのでは」と挑発的な質問が投げかけられた。

これに対しトゥ氏は「油と水のように一見混じり合わないものでも、どちらも液体であり、共存に限界はない」と返答。会場から拍手が湧き起こった。

また米国との交渉中には「もし米国議会がかつてケサンへの原爆投下を可決していたら、あなたはどう思うか」と挑発的な質問をされたこともある。トゥ氏は落ち着いてこう答えた。「幸いなことに、米国議会はそれを認めなかった。もし認めていたら、今日この場に私はいないだろう」。

開放の限界と産業別の駆け引き

各国はベトナムに市場全面開放を迫ったが、交渉団は国内産業が耐えられる範囲を精密に分析し、段階的開放を提示した。

例えば乳業では、トゥ氏自らビナミルク社長と協議し、関税削減の水準を慎重に決定。業界団体の声を聞き取り、どの産業を即時開放し、どの産業を段階的に守るかを定めた。石油流通やたばこは非開放、銀行は25%まで、通信は最大限開放と、細かく線引きされた。

最も熾烈な相手

最難関は米国・EU・中国との交渉だった。特に米国とは、徹夜交渉が常態化していた。交渉担当者が変わるたびに前回の合意が覆され、振り出しに戻ることもあった。

米国は繊維産業に輸出枠を課そうとしたが、WTOルールに反するとしてベトナム側は徹底抗戦し、夜を徹しての交渉の末、2006年5月の最終合意で譲歩を回避することに成功した。

その裏では米国の繊維業界団体や航空機メーカーのボーイングなど、米国内の経済界を味方につけるロビー活動も展開された。生命保険市場を米企業に開放する代わりに、彼らには議会への働きかけでベトナム繊維業界を支援してもらう――そんな「相互依存の取引」も功を奏した。

忘れられない一言

トゥ氏がいまも記憶しているやり取りがある。1990年、台湾で投資法を紹介していたとき、記者から「ベトナムに民間企業はあるのか」と問われた。

当時の規定から「ある」と言えば問題視されかねず、「ない」と言えば国際協力を失う。YesともNoとも言えない難局に追い込まれた。

そこでトゥ氏は逆に尋ね返した。「では、民間企業にはどのような利点がありますか?」。記者は「活力があり、管理コストが低く、競争力があり、雇用を生み出す」と答えた。そのうえで、トゥ氏はこう言い切った。「人類は決して良いものを拒まないでしょう。」

その一言は、政治的制約の中で市場経済の正当性をほのめかし、未来を示す巧みなメッセージだった。

WTO加盟交渉の本番へ

ASEAN加盟後、ベトナムは次なる課題であるWTO加盟交渉に挑んだ。各国の要求は厳しく、時に「譲歩か孤立か」という選択を迫られることもあった。トゥ氏は語る。
「交渉は常に『闘い』でした。しかし同時に、相手との協力なくしては一歩も進めない。だからこそ『協力しつつも闘う』という原則を掲げ続けたのです」。

最終的に、ベトナムは妥協と戦略的譲歩を織り交ぜながら、加盟の道を切り拓いた。その背後には、こうした言葉巧みな説明と、時に窮地をしのぐ即興的な知恵があった。

歴史の証言から学ぶもの

今日、ベトナムは国際的なサプライチェーンの要として存在感を増し、輸出規模では世界上位に位置する。だが、その舞台裏には、国家が孤立から脱しようと必死に道を探し続けた時代があった。

トゥ氏の証言は、その過程が単なる経済政策ではなく、時に一言の言葉、ひとつの比喩に国の未来が懸かった「人間ドラマ」であったことを物語っている。

※本記事は、各ニュースソースを参考に独自に編集・作成しています。
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