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【社会】サイゴン繁栄の「秘密」は寛容にあり

台風被害へ募金するサイゴンの子どもたち
(C)THANH NIEN

「サイゴン=東洋の真珠」と呼ばれた時代から今日のホーチミン市に至るまで、この都市の繁栄の根底にあるのは「寛容の精神」である。
かつての繁栄を植民地統治や旧政権の「成果」とみなす見方もあるが、実際にはサイゴンが自らの力で発展してきた歴史がある。

歴史の流れとともに築かれた商業の都

「東洋の真珠」との呼称は1913年頃、フランス統治時代に使われ始めた。しかしその活気の源流はさらに古く、17世紀の阮氏政権期(広南国)にまでさかのぼる。
歴史書『撫辺雑録』において、黎貴惇は「政治は寛大、公正で、外国船との交易も明確で民が安んじて暮らした」と記している。
当時、南方はまだ阮主の支配が及ばなかったが、現在のホーチミン周辺にはすでに多くの人々が集まり、交易の拠点となっていた。

この地は元来カンボジア領ではなく、古代フナン王国の旧領であった。16〜17世紀、衰退したカンボジア王国が阮主に支援を求め、1620年にはサイ王の娘・玉媛公女がチェイ・チェッタ2世に嫁ぐ政略婚が成立した。3年後には阮主が現在のホーチミン市に課税拠点を設け、ベトナム人移住者の居住と交易を公認した。

このことは、当時すでにこの地域が阮主政権の統治下にあり、活発な市場経済が根付いていたことを示している。以後、17世紀末には南部全域が正式にベトナムの版図となり、サイゴンは南方最大の商都として発展した。

「寛容」と「市場経済」の伝統

黎貴惇が述べた「寛大な政治」「公正な交易」は、今日のホーチミン市の気風にも通じる。権力が民を抑圧せず、共に栄える政治がなければ、人々は安心して暮らすことはできない。
19世紀初頭、明命帝(ミン・マン帝)の治世にベトナムは史上最大の領土を有し、アジアでもっとも繁栄した国家の一つとされた。明命帝が拒んだのは「フランスによる独占貿易」であり、外国との平等な通商そのものではなかった。

つまり、ベトナムにおける市場経済の精神は外来思想ではなく、長く培われてきた伝統の一部だったのである。
その基盤となったのが、「他者を受け入れ、共に助け合う寛容の文化」であった。

経済解放の原点はホーチミン市に

1975年の南北統一後、国家は計画経済を導入したが、ホーチミン市では市場経済の芽が生き続けた。
当時のレ・ズアン第一書記は「北部の誤りを南に持ち込むな」と警鐘を鳴らし、地方経済の多様性維持を訴えていた。
その後、ホーチミン市人民委員会のボー・バン・キエット主席らが中心となり、「バー・ティの米取引」など非公式な市場流通を黙認。これが“制度の壁を破る”象徴的な動きとなった。

こうした試みが後のドイモイ(刷新)政策につながり、1986年の第6回党大会で正式に市場経済が承認された。
ホーチミン市はその先駆けとして、常に経済改革の実験場・推進役であり続けた。

「寛容」がもたらす共助の精神

今日、ホーチミン市はベトナム経済の中心地であり、国家財政への最大の貢献都市である。しかしこの街を特別なものにしているのは、経済的成功だけではない。
災害やパンデミックの際、市民が互いに助け合う姿勢が自然に現れる。
無料の「ライスATM」や「0ドン食堂」は、ホーチミン市から全国へと広がった。

寛容と共助の文化こそ、この街が「東洋の真珠」と呼ばれ続ける理由である。
制度改革と人間の優しさ、その両輪がホーチミン市を動かし続けている。

※本記事は、各ニュースソースを参考に独自に編集・作成しています。
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