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“続ける力”でサバイバル|進出四半世紀の中小企業|特集記事Vol189

ベトナムビジネス情報誌ACCESS Vol.189の表紙

1990年代半ばの第1次ベトナムブームに進出した中小企業。大手企業と異なる環境や制約の中で、25年以上も事業を続けられたのは何故か? その背景にある創業時の挑戦、独自の工夫、現地スタッフとの関わり方などを取材した。

ベトナム進出から28年を経たKACHIBOSHI(VIETNAM)の宮林社長

 「滑り止め軍手」を初めて作ったメーカーとして知られる富山県の勝星産業。ニットの手袋にゴムや樹脂などの滑止めを加工した製品で、1961年から本格的な生産を始めた。

 ただ、運悪くその特許が継続できなくなってしまった。同業他社との価格競争になるだろうと、海外生産でのコストダウンを考えるようになった。

 一方、同社は1970年代から手袋メーカーとの合弁でベトナムに進出し、ホーチミン市で軍手を生産していた。戦争終了で撤退となったが、その際にベトナムと同社をつないだ日本人ビジネスマンがおり、約20年後にベトナム政府の企業誘致を伝えてきた。

「第1次ベトナム投資ブームの時期でした。詳しい経緯は知らないのですが、その方がベトナム法人の初代社長になりました」

 工場はホーチミン市のタントゥアン輸出加工区も考えたが、水はけなどの理由からリンチュン輸出加工区に決めたのが1995年。1996年にライセンスが下りて、1997年2月にKACHIBOSHI(VIETNAM)を設立した。

1996年に行われたKACHIBOSHI(VIETNAM)起工式(上)と1997年に完成した現地工場(下)

 生産の大まかな工程は、編み機で糸を編んで手袋の形にして、天然ゴムやPVC(ポリ塩化ビニル)で滑止め加工を施し、必要な個所をミシンで縫製する。その後は検査、包装、日本に輸出となる。

 工場で使う機械は日本から輸出したが、最初は編み機だけ。次にPVCの滑止めライン、そしてゴムの滑止めライン。滑止めを付けた後の乾燥がPVCは短時間、ゴムは長時間なので設備が異なるのだ。

「手袋はあっても滑止めの知識はベトナム人になく、指導した日本人社員は苦労したと聞いています」

 また、軍手は用途に応じて綿、ポリエステル、ナイロンなど様々な糸を使う。これらが調達できなかったことも大きな痛手で、ほとんどを日本から輸入したそうだ。コストダウンが目的のベトナム工場だったが、試行錯誤が続いた。

KACHIBOSHI(VIETNAM)の主力商品である各種滑り止め軍手

 現在は新商品の試作などを除いて生産はベトナムに移管しているが、軌道に乗ったは2010年頃。約260台の編み機が安定稼働し、多くの材料がベトナムで調達できるようになった。最盛期に約230人いた従業員は現在170人ほどだが、生産数はほとんど同じだそうだ。

「日本品質を落とさなかったこと、グリップ力など機能が評価されたこと、ファンの方の応援などが、続けられた理由だと思います」

 日本での販路は製造業の工場、ホームセンター、小売店、コンビニなどと幅広く、用途、デザイン、サイズ、色など多種多様で、OEM生産もしている。月産目標はおよそ10万ダース。現在は毎週コンテナ1本を送るペースという。

 しかし、このように「回復」できたのは昨年からのこと。宮林氏は赴任した2024年5月当時を振り返る。

「工場の要となる工場長や課長クラスが退職してたんです。会社が1周回ったら、次が育っていなかった」

 30歳で入社しても25年経てば55歳で定年だ。会社を支えてきた功労者が退職した後、その下のメンバーは技術力やリーダーシップに開きがあった。指示系統のトップダウン方式もうまく作用しておらず、コロナ禍の影響が続いて売上も下がっていた。

「これままずい状態だと感じました。進出して長い企業にも、長いなりの問題あると知りました」

編み機で製造された手袋をミシンで縫製する社員たち

 営業職が長かった宮林氏は材料の調達から開始。中国製に切り替わっていたのを様々な会社を訪ね歩いて、9月頃にはベトナム製に戻した。同時に、日本本社と連携しながら生産量を増やしていった。

 社内では、20ほどあるラインのリーダーはいても、彼らを仕切る課長クラスがいない。そこで、「やる気がありそうな人材」から3人を選んで課長職に抜擢し、現場を任せた。

「去年の10~12月で何とか黒字に戻しました。従業員には毎日残業してもらいました」

 何年も修理ができないでいた編み機があった。ほったらかし状態だったが、ある従業員が「直せます」と語る。実は彼は独学で学んでいたのだが、実際に修理して、新しい編み方ができるようになった。3人のリーダーの1人である。

 その編み機で編んだ手袋を本社に発案。ホームセンターなどに認められて最近商品化されたのが、「パイルゴムライナー」という防寒手袋だ。滑り止めが付いた生地の厚い手袋で、北海道など寒冷地域で特に人気が高い。

 これをきっかけに毎週のように新商品向けサンプルを日本に送っており、糸などの新しい素材も提案している。

「良かったのは従業員が若返りしたこと。自分のアイデアが商品になったと知れば喜びます」

 昨年からは国内販売も始めた。当地の日本人の伝手を頼って日系の工場に始まり、それ以外の工場にも作業用軍手を納入している。品質の高さが伝わって継続となることも多く、ベトナム市場には入り込める余地が十分にあると感じている。

「日本での需要は横ばいですから、コンテナ1本分ぐらいはベトナムで売り上げたいですね。まだまだ遠いですけれど(笑)」

 機械も一部を新しくした。設立当時から四半世紀以上を経ている機械もあり、元々日本から中古を運んでいるので、「50年選手」などもあったからだ。

KACHIBOSHI(VIETNAM)の工場に設置されている古い編み機と新しい編み機

 今後は社員研修なども考えている。基礎的な部分は理解していても、人によって知識や作業で隔たりは出てくる。そうした部分を平準化していくためのものだ。

「人も入れ替わって、進出から1周回ったということ。これから2周目を走ります」

1996年の設立から間もなく30周年を迎えるInter Art Saigonの萩 雄一社長が30年の歴史を振り返る

 専門学校を卒業後、バブル期に内装会社に就職。コスト、スケジュール、品質を管理しながら、営業、設計、施工管理、引渡しまでを担当した。7年を務めた1991~1992年頃は日本経済は停滞期に入っており、欧米系企業の進出が増える中で、こうした企業からの依頼が続いた。

「営業でもデザイナーでもなく、浅く広くやっていた私の仕事を、彼らは『プロジェクトマネジャーとして価値が高い』と評価してくれました。驚きましたし、自信が持てました」

 1993年に独立するが、前社と競合するのを嫌って海外に出ようと考えた。第1次ブームだったベトナムに渡航したのは1993年。そこで共同経営者となる塩崎広直氏に出会う。

「不動産会社にいた彼が情報を集めての営業、私が内装という役割分担が生まれました」

 ライセンス取得に時間を要し、1996年4月にホーチミン市にInter Art Saigonを設立。知己が広がる中での初めての仕事が、今でもレタントン街のランドマークであるサービスアパート「Saigon Sky Garden」の全内装工事と家具調達だ。家具はテーブル、イス、ソファ、カーテンなど部屋に付属しない一式となる。

「当時はサービスアパートが少なく、こうした仕事ができる人、特に日本人の経験者は私くらいだったのです」

 1999年には日系企業が数多く入居する複合ビル、ハノイの「Sun Red River Building」の全内装工事を請け負う。2000年には日本のODAにより建設されたハノイの総合病院「Bach Mai Hospital」の内装と家具、2006年には同じくODAでのタンソンニャット国際空港の内装と家具を受注した。

Inter Art Saigonが手掛けたSORA Gardensnoサービスアパート内装

 こうした完成まで1~2年かかる大型案件だけでなく、最も多いのは実績を積んで受注できるようになった日系企業のオフィスの内装だ。同社の顧客の9割以上は日系企業で、7割がリピーター、3割が口コミや紹介という。

「私たちは街の工務店。家を建てて、扉ががたついたり雨漏りがすれば、丁寧に対応する。すると、親戚が家を建てたときに『手伝って』と呼ばれる」

Inter Art Saigonが手掛けたHORIBA Vietnam社のオフィス内装

 その後も2015年には旧ビンズン省のマンション「SORA gardens」や住宅「MIDORI PARK」などを手掛ける一方、2017年からは日本のホテルや商業施設に、生産管理したオーダーメイド家具の輸出を開始した。

「私たちの強みは、グレードの高いホテルの内装までできることと、ベトナムに家具製作ネットワークを持つことです」

 日本の家具の海外生産は長らく中国が担ってきたが、チャイナリスクなどから近年はベトナムに移り始めている。また、家具は一般的な大量生産品と、案件ベースで動く少量の特注品に大きく分かれるが、Inter Art Saigonは顧客に応じた家具工場の割り当てができ、分離発注なども可能だ。

 輸出量は案件で様々だが、中規模ホテルで200室とすれば、各部屋にイス、デスク、ソファ、カーテンなどを揃えて20フィートコンテナが数本分となる。

 現在、内装・家具調達と家具輸出の割合は、売上ベースで7:3くらい。家具輸出を始めた理由が内装の仕事の波の軽減だったことから、輸出の割合を増やそうとしている。

「不動産不況による建設や内装の規模縮小は昨年まで続きました。好不況の波をいかになくすかが一生の課題です」

 2019年にはハイフォン最大級のホテル「Hotel Nikko Hai Phong」と「Roygent Parks Hai Phong」の内装と家具を受注。客室とサービスアパートにロビーやレストランも併せた、設立以来最も大きなプロジェクトとなった。

Inter Art Saigonが手掛けたRoygent Parks Hai Phongの内装

 ハノイの案件では最初は出張ベースだったが2004年2月にハノイに支店を開設。ハイフォンは2020年8月、ビンズンは2022年に支店を作った。ただ、どれも必要に迫られてのことで、戦略的な計画などではなかった。

「事業は続けることが何より大切なので、無理に大きくしたくないし、冒険もしたくない。仕事が継続できたのは必要に応じて動いたからだと思います」

 現在の従業員は全国に35人(取材時)。内装の仕事は設計の他、プロジェクトコーディネーターと呼ぶ営業窓口、現場を管理するサイトマネジャー、品質管理者の3人で担当している。

Inter Art Saigonの年末パーティーに参加した社員と萩社長

 ハイフォンでの仕事の評価も高く、顧客は続いているが、ほとんどが日系企業で残りも欧州などの企業。会社の存続にはローカル市場の開拓が必要と語る。

 ただ、大手企業や有望企業は増えているものの、ベトナム企業とは商習慣が異なり、外資系企業では踏み込みにくい部分もある。その突破口となると考えるのが日本文化の根底にある「和」。平和の和、調和の和、心が和む和であり、インテリアの中で表現できる。これまでも実践してきたが、素材としての和紙、染物や織物などの伝統技法、格子柄のデザインなどだ。

「仮に私がいなくなっても会社は続く。そのためにはローカルの開拓が欠かせません」

1996年から働いている社員を表彰する萩社長

 ベトナムに30年以上関わって思うのは、自分たちだけで消化できないことが多く、他の企業など多彩な人脈を築くこと。餅は餅屋に聞くのが一番。そのためパートナーの塩崎氏とは、「こんな心当たりはないか?」と日常的に聞き合っているそうだ。

「ベトナムに長くいることに胡坐をかいてはいけない。わかった気になるのが危険。新しい人の方が知っていることもありますから」

1995年設立のMKSEIKO(VIETNAM)の30年の歴史を丸山会長が振り返る

 長野県に本社を置くエムケー精工は、洗車機などの自動車関連機器、道路情報掲示板やLED表示機などの情報関連機器、餅つき機やパン焼き機などの生活関連機器を製造するメーカーである。

 1990年代から安価な中国製家電が日本市場に入るようになり、価格競争から海外生産を模索した。進出先の候補は中国とベトナム。100%独資で設立できること、ホーチミン市のタントゥアン輸出加工区に長野県の企業が進出していて助言が得られるなどから、ベトナムに決まった。

「決断したのは2代目社長の丸山永樹でしたが、役員全員から反対されたそうです。『これで会社は終わった』とも言われたとか(笑)」

 その心配は杞憂に終わることとなる。1995年9月にMKSEIKO(VIETNAM)を設立して、生産品目を段階的に移管していった。

1995年の工場建設時の様子(上)と2003年の倉庫棟建設起工式の様子

 最初は樹脂製のホースポンプで、プラスチック成型と組立ての工場を作った。次は金属のレジ台やパソコンデスクで、板金と塗装。2000年代半ばには餅つき機やパン焼き機などの家電製品を移管し、制御基板や付随するハーネス(配線)も内製するようにした。

「電子基板の製造やワイヤーハーネスの加工をしているエムケー電子というグループ会社があり、そこから1人が1年滞在、1人が赴任という形で始めました」

 工場での生産と聞くと自動化されたラインに何人かの作業者が張り付くイメージだが、餅つき機やパン焼き機はワンプロダクト生産(ワンプロ)と呼ばれる、1人が1台を担当する方法で作っている。作業者は立った状態で、周囲に部品などを配置して、全工程を組み立てていく。

「ニッチ商品を少量生産していますので、ワンプロは細かな生産計画を立てやすいのです。1人が1日20台作るなら10人で200台などですね」

 トラブル対応にも迅速に動ける。商品にはロット番号の他に製造者番号も付けているため、不具合が出た場合は、その番号から対象となるものを絞り込める。ラインを止めて全品検査などをする必要はない。

「最初は従業員が作業を覚えたり、馴染んでもらうには時間がかかったと思います。現在はもちろん順調に生産できていますし、保冷米びつなどはワンプロでなく数人で組み立てています」

MKSSEIKO(VIETNAM)で製造されてい餅つき機などの家電製品

 この保冷米びつは約15度で米を冷却することで、米の劣化を抑えて鮮度を保つ。生産をベトナムに移管したのは2010年頃で、現在の主力商品の一つである。米が品薄になって価格が上昇した2024~2025年の「令和の米騒動」では、発注が1.2~1.3倍に増加したそうだ。

「米の値段が上がってなぜ売れるのかはわからないです。農家さんから直接大量に米を購入して、その保存用に使っているのかもしれません」

令和のコメ騒動で発注が急増したMKSEIKO(VIETNAM)の保冷米びつ

 エムケー精工には餅つき機や保冷米びつの他にも、家庭用精米機、米保管庫といった米に関係する商品が多い。これらは米の収穫時期である秋口に良く売れる一方、春先は逆に伸びなくなるという。

 そうなると生産体制にも繁忙期と閑散期が生まれるので、閑散期の仕事を増やすきっかけで始めたのが他社からの加工の外注だ。

「プラスチック成型、板金、加工、塗装、基板実装、組立ての一貫体制が弊社の強みです。大抵のご要望にはお応えできます」

 営業担当の日本人を採用して、2012~2013年頃から新規開拓をスタート。板金の技術を活かした郵便ポストなどを生産し、受注を増やしてきた。

 現在、ホースポンプなど一部の商品は欧州などに輸出しているが、98%は日本への輸出であり、その8割が本社向け、2割がMKSEIKO(VIETNAM)が開拓した直接の顧客だ。また、ベトナムの日系企業からも部品加工などを請け負っている。

 基本的に本社からの発注で生産するため、当然ながら増減が出てくる。円安傾向が続く近年では相対的に生産コストが高くなり、発注が少なくなることもある。本社に頼らない同社独自の案件を今後も増やしていくつもりだ。

 現在生産している製品は、エムケー精工の商品と顧客からの外注品を合わせて70~80アイテム。工場は4つあり、成形、加工、塗装、組立てのように大きく工程別に分かれている。仕事が増える度に増築を重ねていった。

保冷装置を組み立てるMKSEIKO(VIETNAM)の従業員

 冒頭のようにエムケー精工では生活関連機器以外に自動車関連機器や情報関連機器もあり、これらは日本の2つの工場で生産している。洗車機や情報掲示板などはかなり大きなサイズなので、輸送コストなどの問題で移管されなかったようだ。

 こうした日越でのバランスの良い生産体制が、MKSEIKO(VIETNAM)が30年続いた理由の一つだと考えている。

MKSEIKO(VIETNAM)が所有するプラスチック射出成型機

「赴任して18年になりますが、最盛期に400人以上いた従業員が現在は約150人になるなど、事業に波はありました。それでも続けられたのは、『ベトナム工場』というしっかりした位置付けがあったからだと思います」

 一番大切にしているのは、工場として機械と人の稼働を上げていくこと。そのためグループ以外の案件も増やしてきたが、他社の商品作りが新しい技術やノウハウの蓄積にもつながっているという。

「モノづくりを通して、ベトナムの社会やマーケットに役立つものを提供する。これからはそんな恩返しもしていきたいです」

執筆者紹介

取材・執筆:高橋正志ACCESS編集長)
ベトナム在住11年。日本とベトナムで約25年の編集者とライターの経験を持つ。
専門はビジネス全般。