なかたに・あかり:2016年に大学を卒業後、同年5月に語学学習のために来越し、「aNcari Room」でユーチューバーとしての活動をスタート。ベトナムの多彩な情報を発信し続けて登録者数は現在16万人以上。各種イベントでも活躍中。
チン・コン・ソンの恋愛と楽曲
ベトナムの国民的音楽家である故チン・コン・ソンを描いた映画『Em Va Trinh』(彼女とチン)が、6月17日から全国で公開されている。制作期間約5年、制作費は約500億VND(約2億7600万円)という大作で、青年期から中年期のチン・コン・ソンを、彼の恋人たちと紡ぎ出される楽曲とで魅せている。
メインキャストは総勢40人、コアキャストは青年期と中年期のチンを演じる2人の男優と、恋人となる5人の女優。5番目の恋人として描かれる日本人のMichiko役に、在越ユーチューバーとして活躍する中谷あかりさんが選ばれた。演技経験のない日本人女性として異例の大抜擢だ。
時代の設定は1960年代~1990年代、舞台はフエ、ダラット、ホーチミン市と移り変わる。あかりさんはダラットとホーチミン市での1990年代、Michikoが30歳、チンは52歳の設定だ。
「Michikoはフランス留学中にチン・コン・ソンの音楽に魅了され、何度も連絡をした後、ベトナムに飛んで彼に会います。2人は次第に恋に落ちていくのですが……この先は映画でどうぞ(笑)」
父親は「詐欺じゃないか?」
あかりさんが女優としてデビューするきっかけは、2019年の冬にメッセンジャーに届いた1通のメッセージだ。内容は「映画のオーディションを受けてみませんか?」。
この映画の製作・配給を手掛けるギャラクシーM&Eが、メインキャストの一人となる日本人役を探していたのだが、あかりさんは知らない。ミュージックビデオの仕事かなと思い、気軽に「やります!」と返信した。
「あのチン・コン・ソンさんを描く映画と知ってびっくりしました。当時は日本に一時帰国中で、父親は『大丈夫か、詐欺じゃないか?』と心配していました(笑)」
約1ヶ月後にベトナムでオーディション。事前に受け取ったセリフで自分なりに練習をして、3~4分のシーンを演じた。しかし、その後の連絡はなく、あかりさんは「落ちた」と確信する。数ヶ月が経って連絡があり、2次オーディションへ。
前回と同じシーンにギター演奏が加わった。映画にギターを弾くシーンがあるためだが、あかりさんがギターを始めたのは来越してから。決して上手ではないと本人は言うが、その経験が活きた。
約3ヶ月の多彩なレッスン
再び連絡は途絶えたが、数ヶ月後に衣装合わせ、そしてカメラチェックに呼ばれた。その後、怒涛のレッスンが始まった。
全く話せなかったというフランス語は週4回、演技は週2回、ダンスと歌のレッスンは当初は制作側が用意して、後はあかりさんが友人やコーチに頼んで続けた。これらが同時進行で3ヶ月ほど続き、ハードスケジュールに「頭がパンパンでした」。
演技のレッスンは2ヶ月で10回の基礎コース。相手と互いの目を見て気持ちを伝える、猫や蛇になって動作するなどから、次第にセリフが加わる。あかりさんは感情がすぐに顔に出るタイプと自覚しており、それが嫌で抑制してきたという。
「レッスンでは全員が感情を思い切り出していました。そして私も。恥ずかしさは残りましたが、とても気持ちよかったです」
レッスンでは悔しくて泣き出したこともあるが、逆にやる気も出た。また、撮影に入るまでのダイエットを指示されて、3ヶ月を掛けて4~5㎏の減量に成功した。
「1990年代は今より痩せた人が多かったのと、チンさんも男優さんたちもスリムなので、合わせる意味もあったようです」
クラスメートの前で演技の卒業発表をしてレッスンは終了し、台本の読み合せが始まった。これまで学習してきたとはいえベトナム語は難しく、友人から改めてベトナム語を習った。そして撮影がスタート。映画の撮影は2020年11月からで、あかりさんのパートは12月から。2021年3月まで続いた。
ベテラン俳優との演技で学ぶ
会社勤めの経験がなく、YouTubeは個人の作業なので、大勢の仲間と何かを一緒に作っていく経験がなかったあかりさん。それが何より楽しかったと撮影を振り返る。ただ、課題はやはり自ら中級レベルと語るベトナム語だった。
簡単な会話は問題ないが、「一歩前に出て」など演技指導の言い回しがわからない。ただ、幸運なことに監督は英語が話せた。『ベトナムの怪しい彼女』などヒット作も多いファン・ザー・ニャット・リン氏だ。あかりさんが戸惑う様子を見せると英語に切り替えてくれた。
監督はMichikoに積極的に動く女性をイメージしており、あかりさんは自分の性格と役柄が合わないと感じていた。監督はそんな彼女を気遣い、相手役となるベテラン俳優のチャン・ルック氏に、「仲良くしてやってくれ」や「面倒を見てくれ」などと頼んでいたそうだ。
「監督さんは俳優を追い込むような形ではなく、演技の修正を頼む時も俳優の自主性に任せていました。優しい方で、とてもやりやすかったです」
Michikoとチン・コン・ソンは親子ほど年が離れている。人称代名詞は「Chú」(おじさん)、「Con」(子ども)と年齢差を意識するのが普通で、あかりさんもルック氏も演技を離れるとそう呼んでいた。しかし、チンとMichikoは恋人同士だ。映画では二人は対等に「Anh」、「Em」と呼び合っている。
「ルックさんは一緒のシーンが一番多かった男優さんです。ほかの役者さんやスタッフさんも同じ現場にいますが、彼だけ特別で、感情移入が強くなりました」
新型コロナの影響を受け、加えて中部地域では洪水や台風もあって、撮影は延期が続いた。当初はチン・コン・ソンの20周忌に合わせた2021年4月の公開予定だったが、クランクアップは2021年3月となった。
その後はスタジオでの音声の再録があったくらいで撮影は無事終了し、編集作業へと移った。映画はあかりさんたち俳優の手を離れ、次に彼らが再会したのは公開前の記者発表の場。久しぶりに一緒に食事を楽しんだそうだ。
映画にまつわるエピソード
あかりさんのエピソードをいくつか。彼女をオーディションに誘ったのはファン・ザー・ニャット・リン監督の指示だった。日本人の性格や仕草は同じ日本人でないと表現が難しいと考え、日本人女性を探していたところ、彼の友人があかりさんのYouTubeを紹介。それを見て連絡を頼んだのだ。
2次オーディション後に連絡がなくなり、「今度は落ちた」と感じたあかりさん。それには理由があった。以前に日本とベトナムの映画関係者の通訳をしたことがあり、その時にカフェで監督に挨拶をしていた。2次オーディションの最後に、現場にいた監督にそのことを伝えると、監督は考えた末に思い出してくれた。その後で連絡が途絶えたため、「余計なことをしたかも」としばらく悩んでいた。
撮影に当たってあかりさんは長かった髪を20㎝ほどカットし、ボブガットのようなヘアスタイルになった。実はヘアスタイリストが工夫して作っている髪型なのだが、そのためかボリュームがアップして、かつらのようにも見えてしまう。全てが自分の髪でかつらではないとのことだ。
ダイエットに成功し、撮影の間はその体重を維持していたが、撮影終了後にインスタントラーメンを食べまくって一気に2㎏ほどリバウンド。その後、1ヶ所だけ撮り直しがあるからと呼び出されて衣装を着ると……。
「衣装さんに『太ったね』と言われてしまいました(笑)」
未来を開いた映画への出演
映画はあかりさんに影響を与えた。会社に勤めたことがなく、YouTubeも始めた当初は職業と言う認識が薄かったため、あかりさんは「肩書コンプレックス」だったそうだ。社会の中で自分の居場所がないと感じ、きちんと会社で働く日本人に引け目もあった。それが映画に出演したことで、「自分に胸を張れる」と自信ができた。
演技が楽しく、チャンスがあれば続けたいが、ベトナムでは日本人役になるためその機会は少ないとも感じている。今後はユーチューバーを続けながらオリジナルソングを出す計画で、その第一弾は「ブンボーフエの唄」。もうすぐ発表予定だ。
「ベトナム語を習い始めても、発音の難しさから断念する日本人は多いですよね。そんな方のために発音特訓コースの動画を作っています。同じ日本人だからわかるポイントがあるはずです」
確定ではないが、9月からはホーチミン市人文社会大学大学院のベトナム学科に入学予定。ベトナムの文化や歴史、社会などを広く学ぶ予定だ。
「ベトナムに来て3年間は友人の家に居候して、YouTubeを始めて、こんなに大きな映画にも出演できました。私、思っている以上に強運なんです(笑)」