ホーチミン市中心部の路上に、販売員のいない小さなバインミーの屋台がある。そこには「お腹が空いたら、パンを一つどうぞ。遠慮しないで」と書かれ、毎日決まった時間に温かいバインミーが並ぶ。
この無料のバインミーを用意しているのは、意外にもベトナムの俳優である。貧しい労働者や高齢者らに食事を届けようと始めた活動は、地域の人々の善意も巻き込みながら少しずつ広がっている。
ホーチミン中心部に毎日現れる無料のバインミー
2026年8月末、雨が降るホーチミン市のグエンチャイ通りを歩いていると、小さなバインミーの屋台が目に入った。
屋台には「お腹が空いたら、パンを一つどうぞ。遠慮しないで。食べて心を温め、また遠くまで歩く力にしてください」といった趣旨のメッセージが掲げられている。
屋台にはバインミーのほか、豚肉などを加工した具材のチャーボンや調味料、水などが用意されている。経済的に厳しい人であれば、誰でも自由に持ち帰ることができる。
特徴的なのは、販売員がいないことである。
毎日午前8時、正午、午後6時になると新しいバインミーが補充される。グエンチャイ通りだけでなく、チャンビンチョン通りやグエンディンチエウ通りにも同様の屋台が設置されている。
「誰が用意しているのか知らなかった」
午後8時。グエンチャイ通りを行き交うバイクの間を、一台の古いシクロが止まった。
降りてきたのは、83歳のカオ・バン・トアンさんである。トアンさんは温かいバインミーを一つ手に取ると、古びた袋に丁寧にしまった。
「妻が家で夕食を待っているので、持って帰って一緒に食べるんです」
トアンさんがこの無料バインミーを利用するようになったのは、旧正月のころからだという。半年以上にわたって利用しているが、誰が屋台を設置しているのかは知らなかった。
「このバインミーのおかげで、家の食費の負担がかなり減りました。誰がやっているのか分からないので、お礼を言うこともできません。こういう屋台がもっと増えて、困っている人を助けてくれたらうれしいです」
トアンさんは1945年に故郷を離れてホーチミン市で暮らし始め、さまざまな仕事をしてきた。現在はシクロをこいで生計を立てているが、収入は安定しない。
「朝7時から夜8時まで働いても、毎日仕事があるわけではありません。1日5万ドンしか稼げない日もあります」
屋台にはトアンさんのほかにも、廃品回収をする人、夜勤を終えた警備員、配車アプリのドライバーなど、さまざまな人が訪れる。
無料屋台の仕掛け人は俳優
この屋台を設置した人物は、俳優のグエン・ミン・ルアン氏である。
テレビドラマや舞台などで活動してきた同氏は、現在は事業経営にも取り組み、その収益を活用して慈善活動を行っている。
最初に設置したのがグエンチャイ通りの屋台である。貧しい労働者らが手軽に食事を取れる仕組みとして手応えを感じたことから、中心部に2カ所を追加し、現在は計3カ所で運営している。
当初は「0ドン食堂」を開く構想もあったという。しかし、食堂を運営するには広い場所と安定した人員が必要になる。
そこで、土地の確保が難しいホーチミン市中心部でも設置できる移動式の屋台に着目した。
高齢者や低所得労働者だけでなく、ドライバー、学生などにも気軽に利用してもらえることが、この方式の利点である。
1台あたり月約1000万VNDを負担
屋台の運営費は、ルアン氏が設立した非営利基金「ハート・オブ・レッド」を通じて負担している。
バインミーや具材、水などを含め、1台当たりの維持費は月約1000万VNDに上るという。
同氏は学校や住宅の建設、自然災害の被災者支援などにも取り組んでいるが、費用がかかるため、現在運営できているのは3台となっている。
一方、活動を続ける中で、周囲からも自然に支援が集まるようになった。
活動に共感した篤志家や若者のグループが、自らバインミーや弁当を購入して屋台に置くケースもある。夜間営業の飲食店が、余ったバインミーを持ってきて置いていくこともあるという。
友人らが基金に直接寄付し、毎月のバインミー代を支援するケースもある。
地域の人々も無償で運営を支える
屋台が毎日きちんと運営されている背景には、周辺で働く人々の協力もある。
近くで飲料を販売している51歳のトー・ティ・トゥエット・バンさんは、バインミーに入れるチャーボンを小分けする作業を手伝っている。
また、屋台が設置されている場所の警備員を務める52歳の男性は、毎日の屋台の管理を担当している。
1日に補充されるバインミーは、午前8時に50個、正午に50個、午後6時に30個である。
「朝8時ごろにパン屋からバインミーを届けてもらいます。人がたくさん取りに来るので、1時間ほどですべてなくなります」
外国人が屋台を見て、販売していると思って代金を渡そうとすることもあるという。しかし、無料だと説明すると驚く人も多いそうだ。
警備員の男性自身も、この活動から報酬を受け取っているわけではない。
「自分の給料で生活できているので、これは誰かを助けたいという気持ちでやっています」
一つのバインミーから広がる善意
ホーチミン市の中心部では、多くの人が忙しく働き、街は昼夜を問わず動き続けている。
その一角で、誰でも無料で受け取れるバインミーが毎日用意されている。
それを始めた人物が有名俳優だったことを知らず、ただ「誰かが困っている人のために置いている」と思って利用していた人も少なくない。
そして、その活動に共感した市民が食事や寄付を持ち寄り、屋台を支える側へと加わっている。
温かいバインミー一つは決して大きな支援ではない。しかし、生活に苦しむ人にとっては、その日の食事を一食分支える存在となる。
慌ただしいホーチミン市の街角で、名も知らない人から差し出された一つのバインミーが、人と人とのつながりを静かに生み出している。
※本記事は、各ニュースソースを参考に独自に編集・作成しています。
ベトナム進出支援LAI VIEN



















