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【国際】ベトナム戦争虐殺裁判、二審も韓国政府に賠償命令

(C) VNEXPRESS

約60年前の韓国軍による虐殺事件の被害者であるグエン・ティ・タインさんは、ソウルの裁判所が韓国政府に賠償を命じたとき、嬉しかったと述べた。

1月18日、クアンナム省フォンニー・フォンニャット村在住のグエン・ティ・タインさん(65歳)は、過去4年間にわたり、タインさんの訴訟を支援してきた韓国の友人たちから多くの祝福の電話を受けた。「胸がいっぱいになって涙が出ました。裁判所の判決は、犠牲者の魂にいくらかの安らぎを与えてくれました」とタインさんは語った。

ソウル高等裁判所は、1月17日の控訴審で、韓国政府に対して1968年の韓国軍による虐殺事件によって家族を失った被害者のタインさんに3000万ウォンと賠償遅延金の支払いを命じた一審の判決を支持した。

現時点で裁判所は、判決内容やその後の解決プロセスについて直接タインさんに連絡していない。今回の判決に関する情報は、韓国・ベトナム平和財団を通じて伝えられたものだ。タインさんは、自分の願いをかなえるために困難を恐れず、経済的支援をし、痛みを分かち合ってくれた韓国人弁護士、関係者、報道陣、そして韓国・ベトナム平和財団へ感謝の意を表した。

タインさんは、賠償金を受け取ったら自分だけのために使うのではなく、他の被害者をサポートするために使いたいと述べている。タインさんは被害者の中で最初に訴訟を起こした人にすぎず、実際にはベトナム中部での韓国軍による民間人虐殺の被害者は数千人に上るとされている。「私の願いはほぼ達成されました。韓国の裁判所と政府が被害者のことを考え、この問題の解決をこれ以上長引かせないことを望んでいます」とタインさんは語った。

タインさんの真実を求める旅は10年前に始まった。2015年4月、韓国平和博物館は、タインさんをソウルに招待し、退役軍人や韓国政府に対して話をしてもらった。タインさんの親族は、タインさんが未だに虐殺の被害に苦しめられているとしてソウル行きに反対したが、タインさんは、真実を語り謝罪を受けるためにソウルに行くことを決めた。これは、韓国軍による虐殺の被害者が韓国を訪問した初めてのケースだった。

タインさんが韓国で被害の実態を話したとき、韓国の退役軍人はこれを認めなかった。「小学校に3年しか行っていない自分の話には説得力がないのかと情けない気持ちで胸が詰まりましたが、私の左腰には虐殺のときの傷がまだ残っているのです 」とタインさんは振り返る。

2016年、弁護士協会に所属する多くの韓国人弁護士が韓国軍によるベトナム民間人虐殺事件の真相究明を求める特別委員会を設立した。2018年、タインさんは、韓国国防省に真実を認めるよう請願書を提出した。しかし、3か月後に韓国国防省は、ベトナム民間人虐殺に関する記録は保管されていないとの回答をタインさんに送った。「明白な真実にもかかわらず、否定されて納得できませんでした。眠れない夜を何度も過ごした後、私は訴訟を起こすことを決めました」とタインさんは語る。

韓国軍によるベトナム民間人虐殺事件の真相究明特別委員会、韓国・ベトナム平和財団、そしてその他の多くの韓国の社会団体がタインさんを支援した。彼らは、フォンニャット・フォンニー村虐殺事件に関する模擬裁判を実施し、タインさんも出席した。「模擬裁判は、韓国政府との実際の訴訟手続きに備えたものでした」と韓国・ベトナム平和財団のクオン・ヒュン・ウー事務局長は述べた。

訴訟は2020年4月に始まった。弁護士団の支援を受けて、タインさんは、フォンニー村虐殺事件の犠牲者74人を代表して、韓国政府に謝罪と賠償を求める申し立てをソウル裁判所に提出した。タインさんは、韓国で数十回にわたって弁護士たちと面会し、記者会見をおこなった。

2022年8月にタインさんは、一審の裁判で証言するために韓国を訪れた。2023年2月にソウル裁判所は、韓国政府に対してタインさんに3000万ウォンの賠償金を支払うよう命じたが、その1か月後に韓国国防省は控訴した。

訴訟開始から4年以上が経ち、毎回7日間にわたって3回韓国に滞在したタインさんは、疲れて諦めようと思ったことが何度もあったが、心の中には不満が残っていた。「真実が明らかであるにもかかわらず、公に認知されていませんでしたから、絶対にあきらめてはいけないと自分自身を鼓舞していました」とタインさんは語り、勝訴を信じていたと付け加えた。

タインさんは、韓国を訪問するたびに様々な人や機関からプレッシャーを受けてきたが、彼女自身の最大の懸念は、自分に学が無いことだった。タインさんは、何度も自分が孤児にならなければ、良い教育を受けて説得力のある話ができたのにと感じていた。しかし、そのようなときに韓国人の平和を愛する友人たちは、タインさんを励まし、タインさんに自分の最大の強みは真実への信念だと気づかせてくれた。

1968年2月12日の朝、フォンニャット・フォンニー村の住民たちは、銃を持った多くの韓国兵が村にやってくるのを見て驚いた。韓国兵の銃声が村の静寂を打ち破った。当時8歳だったタインさんは、叔母に連れられて地下トンネルに逃げ込んだ。トンネルの中には、タインさんの3人の兄弟もいたが、韓国軍に発見されてしまった。兵士は全員に外に出るように命じ、出てこなければ手りゅう弾を投げ入れると脅した。余りの恐怖にトンネル内にいた人たちは、外に這い出してきた。

タインさんの兄は家の前の竹やぶで臀部を撃たれ、弟は畑のそばで顔を撃たれ、姉は台所の入り口付近で射殺された。畑仕事中だった母親も射殺され、タインさんも左腰のあたりを銃で撃たれた。

兄がタインさんを隠れさせ、ベトナム共和国軍の軍人だった叔父がヘリコプターでフォンニャット・フォンニー村に駆け付けた。タインさんと兄は緊急治療のためにダナンに搬送された。

タインさんは、その後しばらく叔父と共に暮らしたが、その後一人暮らしを始めた。祖国統一の日、タインさんは、農業をするために村に戻り結婚して4人の子供をもうけた。毎年、タインさんとフォンニャット・フォンニー村の住民たちは、虐殺の犠牲者のための追悼式をおこなっている。

出典:2024/01/17 VNEXPRESS提供
上記記事を許可を得て翻訳・編集して掲載